AI時代に、経験することの価値は失われるのか

カント『純粋理性批判』を少しずつ読みながら考えたこと

インターネットの普及によって、人間の経験的な知識は、かつてないほど簡単に手に入るようになりました。ある技術をどう学べばよいのか。実務ではどのような失敗が起こりやすいのか。専門書や論文をどう読み解けばよいのか。

以前であれば、人に聞いたり、自分で試行錯誤したりするしかなかった知識が、検索すれば見つかるようになりました。ブログ、動画、Q&Aサイト、技術記事、SNSなどによって、他者の経験に触れる機会は大きく増えました。経験者だけが持っていた知識は、少しずつ共有され、検索可能なものになっていったのだと思います。

そしてAIは、その流れをさらに加速させています。AIは、散在している情報を探し回るだけでなく、要約し、比較し、自分の問いに合わせて再構成してくれます。経験的な知識は、情報化技術によって安価になり、AIによってさらに扱いやすくなったのだと思います。では、経験についての知識がこれほど簡単に手に入るようになったことで、経験そのものの価値は下がったのでしょうか。

私は、そうではないと思います。AIが与えてくれるのは、経験そのものではありません。経験について語られた言葉であり、経験から抽出された知識であり、経験という現象を外側から眺めるための表象です。それは非常に有用ですが、経験そのものではありません。

最近、哲学への憧れもあって、カントの『純粋理性批判』を少しずつ読み進めています。もちろん、専門的に読めているわけではありません。理解もまだ浅いと思いますが、その読書の途中で、この区別について考えるきっかけを得ました。

私の今の理解では、カントは、私たちが物自体をそのまま知ることはできないと考えたようです。私たちが知るのは、時間と空間という形式のもとで現れ、さらに悟性の働きによって構成された現象です。対象は、ただ外から受け取られるだけのものではなく、人間の認識能力によって一定の仕方で構成されるものだと考えられます。

この見方をAI時代に引き寄せるなら、インターネットやAIが提供しているものは、他者の経験を言語や映像やデータとして表現し、さらに再構成したものだと言えます。つまり、私たちは経験に関する知識にはアクセスしやすくなりましたが、経験そのものを手に入れているわけではありません。

たとえば、ある技術分野についてAIに聞けば、学習手順、設計上の注意点、実装の落とし穴、過去の失敗例などを知ることができます。しかし、実際に手を動かし、想定外のエラーに悩み、抽象的な理論が現実の制約の前で崩れ、何度も考え直しながら理解に到達する過程は、AIから直接得られるものではありません。

仕事についても同じです。AIは、設計、分析、実装、検証、レビューについて説明できます。しかし、不完全な条件のもとで判断し、周囲と調整し、失敗の責任を引き受けながら前に進むことは、説明を読むこととは別の経験です。AIは、経験について「知る」ことを容易にしますが、経験によって「変わる」ことを代行することはできません。

ここに、AI時代における経験の価値が残るのだと思います。

もちろん、経験から得られる情報の希少性は下がっています。経験者だけが知っていた小技や、長い時間をかけなければ得られなかったノウハウは、インターネットとAIによって広く共有されていくでしょう。

しかし、経験そのものの価値が下がったわけではなく、情報が簡単に手に入る時代だからこそ、自分の身体と時間を通じて世界に関わることの意味は、別の形で際立ってくるように思います。情報化技術とAIは経験の説明を容易にしますが、経験そのものを代替するわけではありません。

この問題は、理系技術職のあり方にも関わっています。数学的な式変形、既存理論の応用、コード生成、数値計算、論文の要約、定型的な分析や実装補助といった領域は、AIによって急速に効率化されています。形式的に閉じた操作は、前提と規則が与えられれば、かなりの程度まで機械的に進めることができます。その意味で、若手技術者が価値を出していた一部の領域は、相対的に差別化しにくくなる可能性があります。

既存手法の実装、仕様に従ったコーディング、定型的な分析、基本的なドキュメント作成などの能力は依然として重要ですが、それだけでは差別化しにくくなってきています。しかし、技術職の本質は、単にこれらの処理をすることではありません。本当に重要なのは、この問題をどのように定式化すべきか、この手法を使ってよいのか、この前提は現実に合っているのか、この設計は長期的に保守できるのか、といった判断です。

これは、単なる形式操作ではなく、理論と経験的世界の境界を見極める力です。

カント的な言葉を借りるなら、ここでは悟性の働きが問われるのだと思います。与えられたデータや現象を、どの概念のもとに捉えるのか。どの仮定を置けば対象として扱えるのか。どこまでをモデル化し、どこから先をモデルの外部として残すのか。こうした判断は、単なる計算ではなく、経験と概念を結びつける能力に属しています。

理論的に正しいことと、実際に使えることは違います。この違いを理解している人間の価値は、AI時代にも失われません。むしろ、形式的処理が安価になるほど、その処理をどこに適用すべきかを判断する力の価値は上がるのではないでしょうか。

若手技術者についても同じです。

AIを単なる答え生成機として使う若手は危ういと考えています。AIに調査させ、コードを書かせ、説明を作らせるだけなら、その人自身の判断力は育ちません。一方で、AIを経験値を加速する装置として使える若手は強いです。手法の限界を洗い出す。設計上のリスクを検討する。例外的なケースを想定する。過去の失敗事例と比較する。こうした使い方ができれば、実務経験の少なさをかなりの程度まで補うことができます。

つまり、AIは若手を不要にするのではなく、若手の成長速度の差を拡大するのだと思います。

AIによって価値が下がるのは、単に知っていること、単に計算できること、単に実装できることに依存した能力です。反対に価値が上がるのは、問いを立てる能力、仮定を疑う能力、理論と現実の接続点を見抜く能力、AIの出力を批判的に検証する能力です。

AIは、経験の説明、形式的処理を安価にしますが、経験すること、判断すること、そして世界をどのような対象として構成するかを引き受けることは、依然として人間の側に残されています。その意味で、AI時代とは、人間の価値が消える時代ではないと思います。むしろ、人間の価値が、よりむき出しになって問われる時代なのだと思います。

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作成者: ちくはく

40代前半、会社勤めをしながら都内で一人暮らしています。 これからの人生をより充実させたいと考え、日々試行錯誤しています。 ミニマリズムとの出会いをきっかけに、 暮らしや考え方が少しずつ整理され、前向きな変化を感じるようになりました。 このサイトでは、そうした日々の気づきや学びを気ままに記録しています。 同じような価値観をお持ちの方と、つながれましたら嬉しいです。

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