学生時代のスニーカー
最近、ものを使い切ることに密かな快感を覚えています。思い返してみると、学生時代はごく自然に物を使い切っていました。理由は単純で、自由に使えるお金が少なく、替えのものを持っていなかったからです。
スニーカーは一足を徹底的に履き、靴底が擦り切れるか、どこかに穴が開くまで使っていました。買い替えは「欲しいから」ではなく、「もう限界だから」というタイミングでした。
不思議なことに、その頃に履いていた靴は、今でもいくつか具体的に思い出せます。色や形、どんな場面で履いていたかまで、意外と鮮明です。当時は特別な靴だったわけではありません。けれど、生活の中で一足と向き合う時間が長かったからか、記憶の中では強く残っています。
いつの間にか使い切らなくなっていた
社会人になり、収入が増えるにつれて、物の扱い方は少しずつ変わっていきました。
スニーカーは複数をローテーションし、傷む前に次の一足へ。洋服やバックパックも同様で、まだ使える状態のまま役目を終えることが増えました。
これは合理的であり、決して悪いことではありません。ただ振り返ってみると「最後まで付き合う」という感覚がいつの間にか薄れていたように思います。
これは私だけの傾向だったのかもしれませんが、大人になるにつれ、「使い切る」という体験そのものが、生活から減っていく傾向があるように感じられました。
使い切ることがもたらすもの
ミニマリズムを意識するようになってから、再び「一つを長く使う」生活に戻ってきました。
- 一つの気に入ったものをヘビーローテーションする
- 傷み始めたら修理して使い続ける
- まだ使えるかどうかを自分で判断する
こうした行為は、単なる節約ではありません。ものを手に入れ、使い続けることで、自然と愛着が生まれます。また、使い切ったという実感は、小さいながらも確かな達成感を与えてくれます。
私は、4年以上履いているDarn Toughの靴下に対しても、はっきりとした愛着を感じています。
個人的には、この感覚が静かに自己肯定感へと結びついていると思います。
味が出ることはだらしなさではない
使い込まれた物には独特の表情があります。履き込まれた靴、使い込まれた鞄、色落ちや擦れが残った布地、大切に修理しながら使い続けている洋服など、個人的にはとても魅力的に見えます。
最近は、チノパンの股ずれ部分を何度か修理しながら使っています。完璧な状態ではありませんが、きちんと手入れをしながら履いているからこそ、今ではとても気に入っています。

「味が出る」という言葉は曖昧ですが、適切にメンテナンスされた使い込みには、清潔感や誠実さが宿ると感じています。
少なくとも私にとって、それは「だらしなさ」や「みすぼらしさ」とは違うものです。
ミニマリズムとの接続点
ミニマリズムは単にモノを減らすことではないと思っています。
数を減らすのは手段であって、本質は注意を奪われる要素を減らし、今この時間に集中することで、生活をより豊かにすることではないでしょうか。
一つを選び、長く使い、必要なら手入れをする。そうして最後まで使い切る。
この流れは今の自分の生活感覚にとても合っています。だからこそ、最近の私のミニマリスト的なスタイルが、自然に心地よく感じられるのだと思います。
終わりに
使い切るという行為は、何かを我慢することではありません。
むしろ、「自分で選び、その選択に最後まで向き合った」という実感を、生活の中に静かに残してくれる行為だと感じています。
ボロボロになるまで使ったものの記憶が今でも残っているのは、そこに時間と意識を注いだ証なのかもしれません。
今後も、今使っているものと大切に手入れしながら、長く付き合っていけたらと思っています。