デジタルデトックス、ミニマリズム、デカフェ生活。振り返ってみると、私がここ数年取り組んできたことは、いずれも同じ方向を向いていました。
最初から思想があったわけではありません。ただ、日々の生活の中で少しの違和感を感じるものを、一つずつ手放していった結果、今の形になっただけです。
情報に触れすぎて頭が散らかる感じがあり、物が多いと判断が鈍る感覚がありました。カフェインについては距離感を見直したことで、気づけば習慣を変えられました。
ただ、後から考えてみると、私がやっていたのは単に「減らすこと」ではなかったように思います。
外側の話ではなく内側の話
ミニマリズムやデジタルデトックスというと、物や情報を減らすことが注目されがちです。しかし、自分の感触としては少し違っていました。
問題にしていたのは、「何を持つか」、「何を見るか」そのものよりも、自分の感覚や判断をどこに委ねているのかという点でした。
情報に触れることで考えた気になり、
物を持つことで選択を迫られ、
カフェインで目覚めや集中を前借りする。
こうして並べてみると、私は自分の内側より自然に起こるべきことを、外部の刺激に肩代わりさせていたのだと思います。
依存関係を外した後に起きたこと
依存関係を外すと、正直なところ、一時的にはわずかな負担は増えます。集中するまでに時間がかかることもありますし、暇な時間も、そのまま残ります。決して快適とは言えないものでしょう。
ただ、その代わりに残ったものがありました。それは、時間が、妙に前に出てくる感覚です。
何かを摂って気分の前借りをすることや情報の流れに受け身になることが減り、「今」がそのままの重さで置かれるようになる感覚です。良いとも悪いとも言えませんが、確かにここにいる、という実感だけは間違いなく残ります。
自分を少し離れた場所から見る感覚
こうした生活を続けていると、自分の行動や反応を一段引いた場所から眺めているような感覚になることがあります。
「なぜ今、何かを足そうとしているのか」、「なぜこの刺激を欲しがっているのか」
それを評価せず、ただ観察している自分がいます。後から考えると、これは一種のメタ認知と呼べるものだったのかもしれません。生活を改善しようとしていたというより、自然と距離が生まれていた、という表現の方が近い気がします。
自由は足すことではない
依存関係を外すと自由になる、というと、何かが大きく解放されるような印象を持たれるかもしれません。しかし、実際に起きた変化はとても地味なものでした。
- 見なくてもいい
- 反応しなくてもいい
- 摂らなくてもいい
「しなくていいこと」が、少しずつ増えただけでした。自由というより、生活の可動域が静かに広がった、という感覚に近いと思います。
終わりに
刺激を減らすと、未来への準備でも過去の回復でもない時間が残ります。一見すると、退屈で、鈍くて、特別な意味もない「今」です。
多くの依存は、この「今」を感じなくてすませるために使われているのかもしれません。それを外すと、今この瞬間から逃げる手段がなくなります。
ただ、それだけのことなのだと思います。
この生活が誰にとっても正しいとは思っていませんし、誰かに勧めたいわけでもありません。ただ、自分の感覚の記録として残しておきたかっただけです。
依存関係を一つずつ外した先に残ったのは、意味付けされていない、けれど確かに存在している「今」でした。
私は、しばらくそれと正面から向き合っていくつもりです。